昭和五十六年九月二十七日 朝の御理解
御理解 第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機 感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれ のお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
心一つですべてを創ると言われますよね。心一つでおかげが受けられる。それは神の機感に叶うた心を使うという事ですね。
神の機感、神様のお心に叶うた心を使う。人を殺すと言うが心で殺すのが重い罪じゃとこう。心で殺すと言う事はどういう事だろうか。心で例えば、心で殺すと言う事はそういう事だと思うですね。もうあげな悪いやつはもうそれこそ、罰かぶるがいいとか、お気付の一つも頂かにゃわからんとか、というような思い方もやはり心ですでに殺そうとしておる心だと思うですね。
殺してはおらんでも殺そうと思うとる。ね、信心は例えばそれはこれは、商売人でいうならば、商売敵の上にでも祈れれるような信心ね。商売敵、自分とこは売れてあちらは売れんがよいと思うような心はもうすでに相手を殺そうとしておる心なんですね。だから、そういう心では神の機感に叶わん。
今の田主丸のむつや呉服店の、現、代が替わってしまいましたけれども、お母さん達がやっております商工会でいろんな大売出しがあります。当時の椛目に熱心にお参りになりましたが、とにかく売出しとなると余所の呉服屋さんの包装紙を包んだのを持った人が前を通ったりすると、それがはがゆうして憎らしゅしてたまらじゃった。 もう売出しにもなると、もう口の中がからからになっていわゆる逆上(のぼせ)ちしまう。と言うておられました。それが当時の椛目にだんだん信心をさして頂くようになってわからして頂いてまあ、勿論自分ところのお客さんは大切にする。もうむつや呉服店で結婚式の例えば準備をなさったり、もう自分のところで買うて頂いた結婚の衣服等買うてもらった家には家庭が円満、とても夫婦別れどんしなさるようなこつは絶対ないと思える程しの信念を作らにゃというのでした。
ですからもう田主丸の商工会全体の事を祈り同業者の事を祈りという信心をされました。おかげで言うならば、町全体が繁昌する事を願われた。
それは同じ同業者で言うなら敵同志のように思うておった人の事も、お取次を頂いて願われるようになった。おかげで売出しだからというてのぼせんでもすむようになった。もちろんおかげでだんだん繁昌のおかげを頂いたというような話が残っております、ね。余所が売れよるとはがいい、もうそれこそ、まあいうと自分とこは売れて余所は売れんほうがよいと言ったようなまあ、競争意識と申しましょうかね、そういう心はもうすでに相手を殺そうとしておる。売れんがよい、相手がつぶれるがよいというようなのですからね。私は相手の事を祈ったからあちらが売れるからこちらは売れんごとなるといったような事は絶対ないです。
こりゃまあ、商売だけの事じゃありませんけれどもですね、心で殺すのは重い罪じゃ、心一つですべてを創るといわれる。そういう信心を極めていこうとするのですからね。自分の周辺にあいつがというなのがあってよいはずがないです。
はあもうあいつがと、その言うのではなくて、それがやっぱりあの祈れれる心ですね、ね。心一つですべてを創る。心で殺すのは神が見ておる。神様か御照覧になっておる。だから、自分で自分の心が拝めれるというようなのは例え普通でいうならばね商売敵と思われるような相手の事でも祈れておる時じゃないでしょうかね。
自分の心が拝めれる時、そういう心におかげがある。余所んこつばっかり祈ってから、なら自分の方はさびれると、これは商売でいうならです、という事は絶対ないです。一緒に繁昌していく道なんです。神人共栄という事がいわれます、ね。
神様と氏子とが一緒にこう栄ていくという生き方、私共がおかげさえ頂きゃよいというのではない。私共のおかげを受けた事が神様の繁昌にも繋がるような信心こそいうならば合楽の信心です。
神様と氏子とが合楽し合える商売敵と思うておった人と、いうならば仲よういけれる信心。共に栄えていく、おかげを頂きたいならば、自分の心ん中に誰でもありますよね、いうなら競争心というかね、同じ商売をするならば他よりも自分の方が繁昌するがええ。他(よそ)の店が繁昌しよると腹ん立つといったようなそういう心に取り組んでいく、そういう心ではいわばおかげが頂けん。神の機感に叶わんと思うて神様の機感に叶う心をいよいよ頂いて行こうと精進するところにはもう限りなくあります まあ例えて言うとね、もう合楽教会の事をもう本当にこれ以上の悪口はあるまいというような悪口を、それこそ教務所にも本部にも言うて持って行ったという人、教会の事を聞かせて頂いて何かしらけれどもそこの事が何か祈らずにはおれないという気がするんです。
最近はまあその教会の事も心からこう祈らせて頂いておるわけですけれども、それが心から祈れる時こそ自分の心が拝めれる時です。皆さんやっぱ稽古ですからね、只おかげを頂く稽古ですからね、只おかげ、おかげじゃなくてからそういうおかげの頂けれる元であるその心を本気で極めていかにぁん。同じ家庭の中でもそうですね、最近北野の福島さんも大体昔から信心しとられたけれども最近は打ち込んで信心をしておられる。そしてもう一つ一つわかる事はもう本当に、例えば、嫁との仲でもです、心でずうっというならば、嫁をこなしておったと、ね、これでは嫁が私をこなすはずだと、心での事じゃから誰にも見えんのだけれどもね、私は素晴らしい事がわかっていきよるねと言うてまあ申しました事でしたけれどもね。
別に喧嘩口論するわけでもないけれども、とにかく嫁のする事が一つ一つ心の中でいうならば,憎い心で見ておった、ね。それが反対にね、いうならば温かい心でこう思えるようになった、ね。そこに自分自身の助かりがある。その自分自身の心が助かるその心におかげがあるのです。
自分の心にとにかくあいつがとね言うような心は、もう相手を殺してはおらんでも傷つけておる心です。最近ここで一月余りですけれども、北野の秋山さんのところの御夫婦の事をお願いさせてもらいよったら、ソフトな『ソフト』という事を頂いた。 だからそれ以来私は秋山さん達老夫婦の事を、ソフトな信心生活が出けるように、夫婦でもあげん、ああこうと口には言わんでも争いはなくてもです、いうならばソフトと柔らかい、いうならば夫婦間のまあ生活。いよいよ老後をね、柔らかい、柔らかいいうならば夫婦の生活が出ける。
そこから子供達も助かっていく道も私は開けてくるというふうに思います、ね。
問題は自分の心がソフトにならなきゃいけない。柔らかになっていかなきゃならない。それに信心の喜びが伴うてくる。今まで憎いと思うておったのが可愛くなってくる。今まで、あいつがと思うておったのがおかげでと言えれるようになる、ね。
商売敵の事がです、ね、心から祈れれるね、そういう心がいわゆる心一つですべてを創るという心はそういう心だと思うんです。おかげを頂いて有難いと思う心、ね。 同時にいうならばね、今までは憎いと思うておったのが可愛ゆうなるようなその心がおかげを頂く心なのですから、私の心を限りないいうならば、精進がそこにはあるわけです。昨日、佐多恒行先生が朝お夢を頂いたという。もうそりあ長い長いお夢である。そのお届けを聞かせて頂いてある旅行をしておるわけですね。そこの宿屋に泊まってその一部屋一部屋におる人達のもう様々な様相というかね、まあ人生双六のような一生の問題、様々なこういう事が、悲喜こもごもの事がある。それがいつもその芯が祈りである。ある時には自分の命にも関わるような事もあった。
三階から突き落とされるといったようなところが、はあ瞬間にこれも神愛と思うたらもうそれこそふあ-っと下へ落ちた。といったようなその内容。その長い長いお夢でした。そのお夢のお届けを聞かせて頂いとる時に、私は椛目という字を様々な書体で沢山頂きました、ね。椛目というのはいつも言う心に花というね、だから昨日研修の時に先生方に話した事でしたけれども、いま研修さして頂いておる合楽で修行さして頂いておるのは、この椛目の信心をしっかり頂かにゃならん。どんな場合であっても心に喜びの花が咲くようなね、まだ常持というのは喜びに常住するという事ですけれどもね、それはあなた方が布教に出てからね自分の心ん中にいつも喜びが持ち続ける事が出ける。そして合楽世界に住まわして頂けれる、いうならば御比礼というものをです受けなければならんが、今、只今はどんな場合であっても椛目の信心をする事だと、どんな場合であっても喜びをだしていく稽古なんだと。椛目という字をいろんな書体で沢山頂いた。そりあなかなかもう、まとめようにもまとめようのないような長い長い夢ですけれども、その交々のある問題を喜びという答えを出していかなきあならん。いやそりあ自分の命を取ろうとする命に関わるような場合であってもぎりぎりの時にあ、これが神愛だとこう思える信心をね、頂かなければいけない。
例えば本当にすべてが神愛という事が言われます。そこにはねいうならば、心で憎むとか妬むとかいうような心がだんだんなくならなければ神愛という答えは出てまいりません。勿論喜びも出てはまいりません。ついてはまいりません、ね。そういう私共は稽古をさせて頂いとるのですからね、私共のやはり中に商売さして頂いとっていうならば商売敵というのがあってよかろうはずがありません、ね。
とにかく人も助かる事の為には和賀心、心一つですべてを創る。おかげは和賀心、その和賀心を目指さして頂いておる私達ですから、気がつかない中に和賀心とは反対の心が心に動いておるような心を一つまあとっちめて改めていくという事になりましょうか、ね。心一つですべてを創る、おかげは和賀心にありという事を究明してまいりますと今日のようなこういう御教えにと同じような自分はそうとは思ってはいなかったけれども、すでに相手を殺したり傷つけたりしておる心があったんだと、ソフトにソフトというものがなかったんだというところに気づかせて頂いて改めていくという事ね。はじめて心一つで成程すべてを創るという意味がわかるような気が致します どうぞ。